すべてが終わり、スタッフロールが流れた瞬間、僕は映画館から急ぐように出た。
観終わった後の余韻を味わいたくなく、何かで流し込みたかった。
その感情とは裏腹に、人を殺した後のような気分で映画館を出ている自分がいる。
余裕をもったような歩き方、人生など自分の思い通りにできると考える傲慢さを感じる。
その思いどおりは主観でしかないのに。
僕はショッピングモール内の映画館にいた。
まだ昼前であったので、本来の目的であるショッピングにより、映画での記憶は沈んでいった。
昼が過ぎ、何も食べていないことに気づき、かといって何かを食べる気がまったく起きず、スターバックスでコーヒーを飲んでほっと一息をつくと。
映画を観ているときに感じた様々のことが頭の中にわき、ジョーカーであるアーサが自分と同じ空の下にいる親しい友人のように思えてきた。
しかし、だからこそ思ってしまった。あのラストはよくなかった、と。
もちろん、あのラストは避けることはできなかった。あの作品がバットマンシリーズである以上、彼はジョーカーとしてああなるべきだった。だからこそ、本シリーズの重みにつながるわけだし、アメコミ映画がこれまでやってきたことに対する強烈なカウンターになっている。
それでも、あのラストは嫌だった。
今日、書く記事はそういう話です。
アーサーという一人の人間
あの映画全体の魅力として、これからジョーカーになるアーサーが一人の人間としてスクリーンの中で動いていたことだ。映画の導入、一人の男がピエロのメイクをしていた。しかし、彼はメイク中、涙を流してしまう。それによりメイクがこぼれてしまう。鏡の前で無理やり笑顔をつくり涙を止めようとする。場面が切り替わり、お店の閉店セールの看板を掲げるアーサー。ピエロとして看板を掲げるも誰もが彼を無視する。そんななか、後ろから彼の看板を奪って走り出す少年たち。看板を返してくれ、と叫んで追いかけるアーサー。周囲に助けを求めるも、だれもが彼らを無視する。追いかけに追いかけ、路地裏まで追い詰めると、少年たちから取り囲まれアーサーはボコボコにされてしまう。傷つき地面に倒れる彼をおいて少年たちが立ち去った時に、ジョーカーのロゴがバーンと大きく映し出された。
この時に、これから何を見せられるのかを察した僕は胃が痛くなった。
ピエロになろうとしている青年が、鏡の前で泣いているからピエロになれない。つまり、今の姿は自分がなりたくてなっている姿ではない。閉店セールやラジオの情報から、経済が困窮していることがわかる。しかも、子供にいじめられてしまう。
ここがどん底だとして、そこから幸せになっていく映画なわけないから、きっともっとつらいことがあるんだろう。そこからカタルシスを得るのなら、序盤のこの場面と逆をやるだろうから。殴られる立場から殴る立場に、無視されるピエロから注目されるピエロになるんだろうな、ということはわかりましたよ。
察しのいい人は映画見る前からわかってたでしょう。だからこそ、この段階でもう嫌だ。席から立ちたいと思った。想像以上に心を揺さぶられてしまう自分がいたから。
この映画で描かれるアーサーが一人の人物として完成しているんです。
彼は障がい者である。とつぜん笑いが止まらなくなる病気を抱えている。
ここもすごいなって思いました。たしかに、悪役ってとつぜん笑いだすんですよね。それは悪役だからこうっていうテンプレートのままにせず、障がいであると説明することで、一気に人間になっちゃうんです。
さらに、収入も少なく貧乏である。母親を介護しなければいけない。職場での立場も悪い。いろんな不運があり、それらのどれかに感情移入してしまう人は少なくないだろうなと思いました。
そんななか、彼に転機が訪れる。
とある事故で彼はサラリーマンを殺してしまう。
それにより、たまたまピエロ姿であった彼が富裕層である大企業のサラリーマンを殺したことにより、そのピエロを英雄視する動きが出てしまった。そこに彼は気分の高揚を感じ取る。さらには、気になっていた女性と交際をはじめる。父がテレビの向こう側にいるトーマス・ウェイン(バットマンの父親)かもしれないと考える。コメディアンとしても少しずつ活動を始めた。
表面上は上向きに行く。でも、僕はそれを信じない。
どーせ殺人したことがバレるんだろうなとか、どーせ彼女にも別の男がいるんだろうなとか、父親であるウェインはアーサーのことを他人として扱うだろうなとか、コメディアンとして成功しないだろうなとか、考えるんですよ。
全部、予想以上の悲劇が待っていた。
てっきりこのくらいのことが起きて、ジョーカーになって父親殺すんだろうなと、考えていたらさ。もっとかわいそうなことになってさ。しかも、それが僕のなかの人生のいやな部分を執拗に揺さぶってくるんだよ。いやがらせのように。
そして打ちひしがれているジョーカーの前に鳴り出す電話。すべての声を何も聞きたくない、見たくないと言わんばかりに冷蔵庫の中に閉じこもると。なんとその電話はテレビ局からだった。なんと彼がコメディアンとして活動していたのが映像としてテレビに取り上げられ、話題になったのだ。急遽、彼は憧れのコメディアンがやる番組に出演することに。
昼間だからさ、もしかしたら幸せになれるかもしれないように描かれるけどさ。僕らは信じないんだよね。映画の中で幻覚でしたってオチがあったからさ。これももうそうなんだろうなって思うんですよ。
案の定、次の場面でテレビの映像に合わせてコメディアンと対談する場面があってさ。これが本当に怖い。狂気が行き過ぎていて吐きそうになるんだよ。
彼に感情移入したい気持ちと、彼をかわいそうと思ったら、この後の殺人にも共感してしまうかもしれないという不安でさ。胃のなかが凄い伸び縮みして吐きそうになるんですよ。
でさ、ようやくジョーカーとしてカッコよくメイクして出かけるんですよね。ここでCMやTwitterで話題になった場面ですよ。警察にも追われてさ。すったもんだのすえ、番組に出演。あれ、ホントだったんだってビックリしましたよ。その後の流れも妙にリアルでしたから。都合のいい幻覚じゃないなと思って問題のシーンがあってのラスト。ここの怒涛の流れで放心しましたね。情報量が多すぎてよくわからなくなった。
だからこそ、欝な気持ちもあり、どんな気持ちでいていいかわからなかった。
とはいえ、映画を観たら嫌な気持ちになることは予想してたんですよ。だからこそ、ショッピングモール内の映画館を選んだ。その後で服を選んだり、レストランで食事を摂れば気分も変わるだろうと思ってたんですよ。服を買う元気はあっても、食欲は午後1時をまわってもわきませんでしたけどね。しかたなくスターバックスでコーヒーを飲んで落ち着いたらラストシーンや映画全体についていろいろ考え、イライラしてしまった。
資本主義が悪を生む
この物語の序盤、少年たちに殴られてタイトルロゴの流れた次。アーサーは精神科医と対面する。そこで彼は精神科医の女性に日記でありコメディアンとしてのネタ帳でもあるノートを見せる。
このノート、映画で何度も登場します。僕としてはノートの場面があるたびにやめてくれと思いながら見てました。僕も、コメディアンではなくて小説家を目指しているんですよ。そして、そのために日記でもあり、ネタ帳でもあるノートを持ち歩いて何冊も書きつぶしていた時期があったんです。小説のネタも書いてたし。何にいくら使ったとか、どこで何を食べた、何の映画、小説を読んだ。自分に関係があると思った新聞の記事を張ったりもした。
だから見てて胸が痛くなりましたよ。
そこで精神科医?の女性がノートを見てあるジョークを見つけるんです。
その文章が、
『I hope my death makes more cents(sense) than my life』
精神科医の言葉によって、cents(硬貨)とsense(意味)を間違えて書いていることがわかります。
後からスマホで調べたんですがこの人生よりも死によってお金を望む、この人生よりも死のほうが意味のあるものを望むのダブルミーニングになっているそうです。
つまり自分の命よりもお金が求められる資本主義と、命よりも意味のある死を求めるテロリズムはコインの裏表の関係がある。それは後のバットマンダークナイトのツーフェイス誕生を予見した文章でもあるし、今回ラストでジョーカーの行ったテロが資本主義による不幸の押し付け合いによって生まれるものであるという伏線になっているです。
だからこそ、よりいっそうラストのあの場面が一層ダサく見えてしまう。
人生は悲劇にも喜劇にもなる
この映画の大きなカタルシスの機動力。彼が大きな決断を下す転機。
彼は序盤のノートに書かれた誤文に、彼自身のやるべきことを確信し、行動に移す。
その時に彼が語ったのが、自分の人生は自分の主観で悲劇にも喜劇にもなるというもの。
チャップリンの言葉らしいですね。
この時の語りが妙に自信たっぷりで上手くて、聞いててその時はちょっと興奮しました。そんな自分に嫌な気持ちを抱きつつも、これから彼の人生が変わろうとしているのがわかりました。
なにをしようとしているかわかったからこそ、彼のセリフがカッコよく聞こえてしまう自分が嫌だった。
すべてがバットジョーク、勧善懲悪の限界
ある大きな流れを生んでしまうラスト。そこでバットマンシリーズの有名な悲劇が起きてしまう。これにより、僕がショックだったのが本来であれば悲しい場面で、ヤッタゼと思ってしまう自分がいることです。
この場面はある程度は予想はしてました。たぶん父親の死にアーサーが関わってるんだろうなと思っていた。しかし、まさかああいう流れで見せられてしまうとは。
だからこそ、あの場面はバットマンが好きな人ほど☆1をつけたくなる気持ちがわかってしまいます。
今回の映画のストーリーラインは、ある平凡な男が不幸の末に自分のやるべきことを見出して悪になるです。それはまんま神話で何度も繰り返された英雄が誕生する物語の構造になっています。
そして、ジョーカーにとっての悪がバットマンでなく、その父親のトーマスウェインである。これによって、今までの勧善懲悪がすごいダサいものに変わってしまう。
本作は社会的な影響としても怖い映画だけど、アメコミ映画としても怖いんですよ。
今まで正義が悪を力でなぎ倒すことの矛盾は何度も指摘されてきました。
それでも、なあなあにされてきたんですよ。それを物語の構造自体をジョークとして落とし込むことで価値自体を堕としにかかる映画って今までアメコミでやってなかったんです。
これに近いのは日本だと、まどか☆マギカやたつき監督のつくったけものフレンズ。あれもじつは決まった悪がいなくて、その世界そのものが彼女たちの障害であるってストーリーラインがまったく新しい流れとしてあったんですよね。
アメリカもそれをやってしまった。アメコミの悪役であるジョーカーを使って。そこは本当に物語の仕掛けとしてうならされてしまいました。
渋谷のハロウィンでトラックひっくり返すヤツってカッコいいか?
だけどですよ、ラストのあのオチにカタルシスを感じるかと言ったら、話は別なんですよ。ラストシーンで、アーサーはジョーカーとしてある大きな事件を起こします。それをきっかけに町は大混乱。
今まで虐げられていた貧民。デモをしていたピエロのメイクをした人々が街を破壊しだす。逮捕されてしまったジョーカーも助けられ、テロのシンボルとして祭り上げられる。
最初は銃を撃った後、何をしているのか、何が起きているのかわからなくなってたんですよ。どこまでが幻覚でどこまでが現実なのかもわかってないまま観てましたから。
ジェットコースターに乗ってて怖い中で突然光ったのに気づかなくて、後でカメラで写真を撮られたことに気づくような気分ですよ。
興奮した気持ちであの場面をスターバックスで思い出し、Twitterでアーサーは自分のことだと言う人も何人かいたことも思い出して。
だんだんムカムカしてきた。
なんなんだ、あのアメリカ人どもはあんなに辛そうな顔してたくせに最後に渋谷のハロウィンみたいなことしやがって。
僕の正直な感想がそれだった。
映画を観ていた時、アーサーの境遇にはすごい同情したんですよ。でも、彼は悪の道に染まって大きな犯罪を犯していくんだろうなと思ってたんですよ。なのに、最後の最後でやることが渋谷のハロウィンで、トーマスウェインもそのついでに殺しましたというあのラストがメチャクチャ許せない。
ラストであんなダサいことするなんて本当にムカついた。映画序盤から中盤の彼に感情移入しすぎて、彼がこれから行う殺人に惹かれて自分がいるかもしれないという恐怖を返してほしい。
よくもまあ、あんななさけない殺人でいい曲流してカッコいいしてる感出したね。
一日の終わりにシャワー浴びてるときにさ。周囲の圧力によって悪に押し上げられてしまったのが本当に悲しくてしょうがなかった。
いい映画だったけどさ。ちょっとあのラストは残念だった。
ジョーカーを皮切りに今後どんな映画がつくられるかは楽しみです。
今後も追って報告いたします。